さな吉ストーリー「人の顔色を気にしながら生きてきた」自己肯定感の低さが妊活で露呈した

こんにちは、さな吉です。

最近、お茶会を企画したり、ツイッター上でフォロワーさんと交流したりしていて、会ったこともない私にたくさんの方が話しかけてくれるので毎日しあわせを噛みしめています。

本当にありがとうございます💕

もしかしたら、もう少し私の人となりがわかったほうが安心できるかなと思って、今日は私のこれまでのストーリーを書いてみることにしました。

自分の人生において妊活はどんな意味があったのか、あわせて振り返ってみたいと思います。

この記事で少しでも私のことを身近に感じてもらえたら嬉しいです。

簡単なプロフィール

東京都台東区生まれ、埼玉育ち。

4人きょうだいで私以外は全員男。

兄、私、弟、弟という構成です。
おばあちゃんもいたので、7人の大家族の中で育ちました。

不妊治療歴は6年です。

超低AMH、E2ゼロ、FSH100以上、抗核抗体640倍、子宮筋腫、早発閉経。
治療の末二回だけ採卵までこぎつけました。
それが一番のハイライトです。

仕事はアサーティブ・コミュニケーションを専門とする講師を14年やってきました。
総研修時間はだいたいですが3000時間位やってきて、コミュニケーションをお伝えしてきた人達は1万人を越えてると思います。

2016年に治療に専念するために退職。翌2017年に治療を断念。

今はブログとツイッターで妊活でのメンタル面、コミュニケーション面に特化した情報を発信しています。

ジェットコースターのような小学校時代

私の父は会社員生活を一度もしたことない人で、物心ついたときから新しいビジネスを次々と立ち上げるということを繰り返していました。

最高に羽振りが良かったのは私が小学校2年生〜4年生のときで、このときは毎年夏休みにハワイにいっていました。

かと思えばその直後に急に貧しくなったりと、高低差の激しい子ども時代でした。

 

たぶん事業が失敗したのだと思います。

借金取りの怖いおじさん(だいたい二人組)が

「お嬢ちゃん、お父さんはいるかい?」

と家に訪ねてくるようになりました。

父が本当は家にいるのに居留守を使わないといけないことに心臓バクバクさせながら

「いません」

と答えていました。

借金取りからの電話

家にいても借金取りからの電話が鳴り響きます。

うっかり出ちゃうとウソをつかなければいけないので、子どもながらに電話の音を聞こえなくするために色々な工夫をしました。

座布団かぶせたり、押し入れの布団の間に押し込んだり、はたまた冷蔵庫にしまってみたり。
(一番効果があったのは押し入れ)

こうなると困るのが、身内からの電話に出られなくなってしまうということです。

なので、家族が電話するときは一回鳴らして切る、という暗号のような決まり事がありました。

リンとなって一回切れると、あ、家族からだな、と安心するわけです。

私はこのことに関して全く悲壮感はなく、スパイみたい!と楽しかった(笑)

この頃は親同士が仲がよかったので、つらくはありませんでした。

合間のハワイで思いっきり遊んだし、学校も楽しかったし、家族みんなのことが私は大好きでした。

だんだんと雲行きが怪しくなってきたのは小学校6年生くらいからです。

 

 

家族の崩壊にビクビクしていた10代

この頃から親の仲が悪くなっていきました。

原因はいろいろあったと思いますが、お金の問題が大きかったのではないかと思います。

それで親同士が口をきかなくなり、その中継役を唯一の女の子である私が担うようになりました。

いつも親の顔色をうかがい、それぞれの気持ち推し量ろうと必死でした。

関係が悪化しないように、事実をまげて伝えたり、なんとかふたりの仲を元に戻そうとピエロの役を演じたりしていました。

兄はそうそうに見切りをつけて、ほとんど家に寄りつかなくなりました。

残されたのは年老いたおばあちゃんと弟ふたり。私がしっかりしなければと思いました。

おばあちゃんの相手をしつつ、親の喧嘩を弟達に聞かせないように、一緒にゲームをしたり、おしゃべりしたりして日々を過ごしていました。

敬語を話すのが得意だった

なんといっても7人の大家族です。

きっと家計は火の車だったのでしょう。

中学生くらいからはよく電気・ガス・電話が止まるようになっていました。

でも母があっけらかんとしていたので、当時は特別なこととは思っていませんでした。

家に帰っても電気がつかない、ガスが付かない、なんてことはザラで、そうするとデパートで働いていた母に電話して

「お母さん、電気が付かない」と報告。

そうすると母からは

「今週末には払うからとガス会社に電話して、夕方には通してもらって」

とよく頼まれました。

だから私は中学生の時から敬語がしっかり話せました(笑)

なんてったって「料金未納だけどちゃんと払うからガス通して」というのを大人に向かって話さないといけなかったから(笑)

真冬に水で頭を洗う

私自身、払えないものは仕方ないと思っていたけど、困ったことが2点ありました。

一つ目は電話が止まると「おかけになった電話はお客様の都合で通話ができなくなっております」というアナウンスが流れるので、友だちからかかってきませんように🙏といつもヒヤヒヤしてたこと。それはさすがに「かっこ悪い」と思った。

二つ目は、当時朝シャンが流行りだしてた時期で、意地でも朝シャンしたいのにお湯が出ないということ。

思春期真っ盛りの私はナゾの根性を発揮して、真冬の2月でも水でシャンプーしてました🚿

これ、やったことある人はわかると思うけど、水が冷たすぎて頭がもげそうになるほど痛いんです(笑)
泡も立たないし😅

あの流行に遅れたくないという熱は凄いなとおもいます。いまは無理です(笑)

中学時代は先生とクラスメイトに恵まれて、家はいろいろ大変だけど、学校に行って元気を取り戻す、そんな毎日でした。

 

 

景色がグレーだった高校時代

高校生になると学校が面白くなくなったので、この頃のことを思い出すと景色がグレーがかっています。

親の仲はますます悪くなり、お互いが一切口をきかなくなりました。

世界史の授業で米ソの冷たい戦争のことを学んだとき、「ああ、これうちのことだ」と思いました。

2大勢力が対立し、直接戦争はしないけど、和解も歩み寄りもなく冷たい関係が続く・・・。

中学生の頃からなんとかしたいと頑張っていたけど、一向に状況が改善されないので私も疲れ果てていました。

初めて自分の思いを口にする

高2のとき、遅刻して教室に入っていったら貧血で派手に倒れて保健室に運ばれました。

保健室の先生に

「どうしたの」

と聞かれて

「今日母親が出て行くんです。帰ったら母はいないんです」

と能面のような顔で答えたら

「今すぐ家に電話しなさい、お母さん行かないでって電話しなさい。保健室の電話使っていいから」

と背中押してくれました。

このとき初めて自分の思っていることを母に伝えました。

「お母さん、出て行かないで」

これまでずっと家族の事ばかり考えて自分の気持ちを言葉にしたことがなかった私は、気がついたら受話器を握りしめて泣いていました。

親が不仲になってから、初めて自分の心の声を口に出した瞬間でした。

これで決して親の仲が元に戻ったわけではありませんが、この日は今までにないすがすがしさを感じました。

家に帰ったら母がはにかみながら

「おかえり」

と言ってくれました。

ふたりで恥ずかしそうに対面し、ちょっと気まずかったことを今でも覚えています。

 

 

問題が一気に噴出した20代

だましだまし家族の形を取ってきたものが、20代に入ってから崩壊しました。

親が離婚し、家族がバラバラになり、私は一人暮らしを始めました。

実家がなくなったから荷物の置き場がなくなって、狭いワンルームにおひな様や剣道部で使ってた防具を持っていきました。

ただでさえ狭い1Kの部屋。(ベットを入れたらぱんぱんになるような部屋でした)

おひな様と防具は泣く泣く燃えないゴミの日に捨てました。

(亡くなった母の当時の手帳をみると、「早苗がおひな様を捨てた。こんな子に育てた覚えはない」と書いてあります。お母さんごめんね)

家族のアディクション問題

そういうしているうちに、家族にアディクション(依存症)の問題が発覚しました。

私は長女として問題を解決しようと奔走しました。

狭い1Kの部屋に家族を呼び寄せ、一緒に住み、面倒をみました。

あるとき、にっちもさっちもいかなくなって、専門の施設で家族と一緒にカウンセリングを受けました。

てっきりカウンセラーは家族を叱ってくれるもんだと思っていたら、なぜか矛先は私に向かってきました。

「あなたは何に困ってるんですか?」

こう問われて私は家族に対する不満を一心に語りました。

「仕事はしないし、家にお金はいれないし、私がお金を渡さなきゃいけないし、ご飯をちゃんと食べないし(プンプン)」

そうしたらカウンセラーがこんなことを聞いてきました。

「で、あなたは家族から助けて欲しいと頼まれたことはありますか?」

は?となりました。

そして数秒後、頭をハンマーで殴られたようにショックを受けました。

私、いちども頼まれたことない・・・

家族のためにいつも奔走していたけど、私、一度も頼まれたことなかったんです。

助けてと言われる前に全部私が先回りしてやっていた。

それでいつもカリカリして、家族を恨んで、自分は犠牲者だと思ってた。

「人がどんな気持ちでいるか」「どうやったらいい人と思われるか」ばかり考えて、「私」がいつも置き去りになっていた、そのことに気づいて愕然としました。

生きにくさの原因がわかった

そしてカウンセラーからは、

アディクションは「依存症」という病気であり、その人の一番身近にいる家族は「共依存」になりやすい

ということを教えてもらいました。(共依存とは人の世話することによって自分の存在意義を見いだそうとする人間関係に依存した状態のこと)

このとき、自分がなぜこんなにも家族のことばかり心配してしまうのか、なぜ家族の世話ばかり焼いてしまうのか、生きにくさの理由がわかって気持ちが少しラクになりました。

そこから施設の家族会に通って猛勉強しました。

ここで、私はアサーティブ・コミュニケーションに出会います。

共依存の家族が、どうやって自分の気持ちを大事にし、自分の意志を伝え、人と良好な関係を築いていくのか、それを家族会のみんなで学びました。

このときはまだ気づいていませんでしたが、この出会いがのちに私の一生の仕事へとつながっていきます。

パニック障害になっちゃった

でも、すぐに生き方は変えられなくて、会社ではずっと「いい人」かつ「仕事のできる人」を演じていました。

だから仕事を頼まれても断れない。

毎日終電で帰って、周りにはいい顔して、完全にキャパオーバー。

ある日、会社に行こうと思っても電車に乗れない。

無理して乗ると、電車の中で倒れてしまう。

病院にいったら

「パニック障害です」

と言われました。

総武線の信濃町の駅で発作を起こして救急車で運ばれたとき、救急隊員のおじさんに「大丈夫ですか」と優しく声をかけられたら涙が止まらなくなり、救急車の中でずっと泣いていました。

人の優しさにふれて、自分の中で張り詰めていた糸が切れてしまい、涙が止まらなくなってしまったんですね。

家族の問題を乗り越えたような気になっていたけど、自分にはまだまだ癒やしが必要で、全然一人前じゃない。そう思ったら情けなくなって家に帰ってからも泣きました。

結局、その後8年間勤めた会社を辞めました。

自分の生き方を変えたいと思った30代

会社を辞めた私は、アサーティブ・コミュニケーションに関わる仕事に就きました。

これまでは家族の問題に翻弄されてきたので、30代は自分のために生きたい!と思いました。

幸い、職場はとてもいい環境で同僚にも恵まれ仕事に夢中になっていきました。

子どものことはいつか自然にできるだろうと思っていて、なによりも仕事が楽しかったから、最優先で一生懸命働きました。

この頃の写真をみると本当に生き生きしています。

妊活の泥沼にはまった40代

そろそろ妊活を始めようかという30代後半に母ががんになりました。

母に孫を見せたいと思ったけど、願い叶わず私が40歳のときに亡くなりました。

生理がガタガタになり、その後、子宮筋腫の手術をしたら完全に生理が来なくなり、一気に暗黒の世界へと転落していきました。

タイミングとAIH中心だった妊活もバリバリに高刺激をおこなう不妊治療へとステップアップ

しかし、まったく成果はあらわれません。

挫折に次ぐ挫折。

これまでの人生は、頑張ればなんとかなった。

でも不妊治療はやればやるほど落ち込んで、自分に失望していきました。

自分の体が欠陥品のように思えたし、女として欠落しているという思いがどうしてもぬぐえない。

不妊沼にどっぷりハマり、家では口数が少なくなり笑わなくなりました。

この世の中にこんな暗闇が存在するなんて知りませんでした。

ここで完全に人生の予定が狂い、と同時にこれまで積み上げてきた自尊心や女性としてのアイデンティティがガタガタと音を立てて崩れていきました。

またこういうときに限って子どもの頃の慣れ親しんだ「人の顔色をうかがう生き方」が顔を出してくるんですよね。

本当にこの時は苦しかった。

不妊治療に専念するために仕事を辞めた

ひとつの転機は治療に専念するために仕事を辞めたことです。

仕事と治療の両立は本当に大変だったので、そのうちの一つがなくなったことですこし余裕ができました。

そして、自分が学んできたアサーティブ・コミュニケーションの考え方や、心理学の知識を総動員して、いま自分に何が起きているのか考えるようになりました。

  • どんなときにどんな気持ちがわき起こるのか
  • 世の中のステレオタイプが自分にどんな影響を与えているのか
  • 自分を責めるサイクル(仕組み)はどうやって生まれるのか

そんなことをよく考えていました。

自分に問いかける

もちろん、治療は精神的にも、金銭的にも過酷でしたので、さまざまな結果にその都度傷ついたし、ネガティブな感情も山のようにわき起こってきました。

そうするともれなく「私はダメなヤツだ」という自己否定の考えが浮かんでくるので、そういうときに一つ一つ自分に問いかけていきました。

ねえ、本当にそうなの?

「そうだよ!私はポンコツだし。私なんて生きる意味がない!」と涙しか出ないときもあったけど、

5回に1回くらいは「あれ?私ダメじゃないかも」と思えるようになっていきました。

自分との和解が起きていった

自分の気持ちをなんのジャッジもせずにただ受け止められるようになるにつれ、自分との「融合」というか「和解」が起きていきました。

自分に厳しく、ずっと迷惑かいけないように生きてきたけど、もういいんじゃない?

条件付きの自分でないと良いと思えない生き方は、この辺で終わりにしてもいいんじゃない?

これまでの人生が串刺しのようにひとつにつながって、すべての大変さは意味があったんじゃないかと思うようになりました。

本気で妊活を取り巻く現状を変えたいと思った

と、同時に、私はたまたまこれまでの経験や仕事を活かすことで、このように考えられるようになったけど、みんなは一体どうしてるんだろう、と思いました。

これを、ひとりで、孤独に、そして自己流で向き合っているのでは?

それはあまりにも荷が重すぎる。

なんとか私の経験を再現性の高い形にまとめて、みんなが少しでも楽になるようにサポートをしたい、と思うようになりました。

それで、ブログやツイッターで情報発信を始めました。

今後みんなでやっていきたいこと

自分が経験してわかったことは

「妊活は人生最大の危機である」

ということ。

なんでこんなに苦しいかというと、人生ではじめて真に自分自身に向き合わなければいけないからです。

同時に「私」を問われているからつらいのです。

治療と一緒に、根底から崩れた自分の存在意義を立て直す努力もしていかなければいけない。

私は妊活にはこれを乗り切るための

「思考法」

が必要だと考えています。

それを一冊の本にまとめて沢山の人に届けたい、これが今の私の夢です。

みんなの意見を反映させながら一緒に作っていきたい。

いまこんなアンケートをとっています。⬇️

一緒に作って、後生の女性たちに残していきたい。そう思っています。

なので、これからツイッターやブログでみんなの意見を聞いていくことが増えると思うので、そんなときは気軽にからんでやってください。

今日はめっちゃ長いのに最後まで読んでくださってありがとうございました。
読むの疲れたと思います。
目をもんでゆっくり休んでくださいね(笑)

ずいぶん赤裸々に語ったのでみんな引いちゃうんじゃないかって一抹の不安はありますが、感想もらえると嬉しいです。

ぜひあなたのストーリーも聞かせてください。

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